FC2ブログ

魂の俳優  パクシニャン

{画像の中のパク.シニャン}

映像の中に、一人の生身の人間の表現の中に、芸術を感じたのは始めてであった

受け止めたのは、いかに魂を込めているかという真摯さであって、いかに技をこらし、表情を工夫するかという演技ではない。

まるで神と契約をしているかのようにと感じられる。 自身を道具としてメッセージを伝える。

パク.シニャンは、言うなら、演技という技を捨てている。 そして最終的には、パク.シニャンというブランドさえ捨てている。 そこにあるのは、生きた、現実感のある男が存在しているだけである。 その男が、内から溢れるように、悲しみ、喜び、怒っている。

もう演技ではない。ただ、本当の、その男がいるだけである。               

歴史に残る往年の名優達とは違う、あるいは超えていることがある。 それは、すばらしい名優達は魅力的な演技者であった。 

パク.シニャンはもう演技者ではない。 演じられている人物と演じている演技者という壁がない 驚嘆であった。
パク.シニャンが演じたあの作品をいう表現ではなく、演じられている人物が、あまりにも現実感のある生きた者となっているために、パク.シニャンそのものは、その男の影になっている。

パク.シニャンは自身を捨て、何人もの男達に息を与えたのだ。
これから何人もの男達を紹介したい。 いっしょに堪能してくださればと思う。 豊かな人も知的な人も、まったくそうでない人も、正しい人も、死を覚悟して、新たに生を与えられた人も、様々な男達が、そこにはいる。

きっとその中に、自身のある局面と重なる人物と出会うと思う。

パク.シニャンは画面の中で、出会った人と共に語り、共に悲しみ、そして光を見出そうとし、勇気を与える。
スポンサーサイト



魂の俳優  パク.シニャン  

{シニャンワールド}①

「パリの恋人」

知人から渡され、偶然のように、最初に見た作品である。 その時のぐいぐい吸引される興奮のようなものがいったい何なのか、自分でも分からなかった。 韓国の作品は、テレビで見た2,3だけで、まあ美しいくらいの印象で、すでに過去のものであった。 けれどこの作品、いや気がつけば一人の俳優に、かなしばりにでもあったように、圧倒的に引き込まれた。 この作品の最初の印象は、興奮である。 ここにきて、私の一人の俳優の作品の、集中的なリピートが始まる。

あの時の興奮は、時間がたってみると冷静に分析できる。 歌謡曲の中に、突然、基礎をみっちり学んだ実力のあるオペラ歌手が歌い始めた。 そんな驚きである。 器用でうまいというのとは、はっきりと質が違い、別世界である。

この作品で披露されるのは、パク.シニャンがもっている多くの局面である。 てれ、不器用、やさしさ、一途さ、理性、抑制、激しさ、孤独・・・・ そして、コミカルさ・・・・  実に立体的な俳優である。 それらの局面を場面、場面で絶妙に表現する。 そこに品性、そしてこの俳優独特のしぐさの美しさが加わる。

有名なプールの場面である。
それはあなたの本心ではないと言えるほど、テヨンはギジュという人を見つめていた。 テヨンが去り、一人プールの椅子に佇むギジュ。 存在感溢れる後姿である。 うつむき、孤独な一人の男。 けれどパク.シニャンは、ある一線でその表現を止めている。

同じような感想を述べている書き込みに出会い、驚いたことがある。 「パク.シニャンという俳優は、感情の表現を90%で止めていると感じる。

顔をゆがめ、叫び、めいっぱいうなだれるという演技が韓国作品と洗礼を受けている者にとって、ハッとする瞬間である。

止める。 そこに余韻が漂う。 その一時の空白は、大人の重さを、空気として漂わせる。 男の子ではない、人の孤独を、実は、めいっぱい現すことになる。 ハンギジュが背負っている社会的、家庭的な現実の重さ。 叫んでも泣いても解決できないという、やりきれない孤独。

すべてが久しぶりに見る大人の男である。

パク.シニャンが没入し、演技さえも消え、演じられている人物その者になりきるということは、様々な言葉の違いはあれ、言われるところであるが、もう一つ、私は、本当にプロだと感じ入ることがある。

シニャンワールドは、一つの作品を、天才達が創造した一つの楽曲のようにとらえていて、大きな流れの中で、p、mp、mf、f、ffと強弱の流れがあるということだ。 ゆったりと緩やかに流れる箇所もある。 そしてパク.シニャンのフォルテッシモは、見る者も痛い。

テヨンと別れる空港でのギジュはフォルテッシモ。 抑制もてれもなく、本心だけを吐露している。 ようやく一人の女性にだけ、自分の本心をぶつけることができる。 愛しさ、やさしさが止めることなく溢れている。 テヨンを見送る時の涙。 パク.シニャンが流す本物の涙は、人としての感受性の深さ、繊細さと、いかに没入しているかということが、見る者に伝わる。 泣く演技ではなく、流れてくる涙。

圧倒的な俳優である。


「手紙」

今頃になって、プレゼントのように、初期の頃の映画作品が手に入った。

題名からしてもっと軽い作品を想像していたが、また ひさびさに、金縛り状態を経験した。

まいった・・・・・。
今まで感じてきた、この俳優の姿勢というものが、実は、もう始めから、しっかりと確立していたと感じる。 老成した俳優・・・・

メッセージを伝える。 それがどういうことなのか、自分なりに具体的になってきた。

この作品は軽くはない。 重厚である。

甘くて、すべてが嬉しくてたまらない新婚の夫婦。 ある日、夫が不治の病に倒れる。

手術室に入る夫は、妻に、「いっしょにいてくれ、怖い」と懇願する。

染み込んでくる言葉である。

人は皆宿命を背負い、課せられた苦悩が与えられる。 愛し合う者と短い時を許されて、そして、死を宣告され、別れるという、宿命。 宿命を変えることも、死を免れることもできないが、そんな中で、「いっしょにいてくれ、怖い」と伝える人がいることは、何とすばらしいことだろう。

彼は、聖母に甘えることができた

パク.シニャンは死んでいく瞬間を演じている。 一筋の涙を流しながら。

死後、妻の元に手紙とビデオが届く。 生前の夫が写っている。 部屋の中には、二人だけがいる。

「君には至高の愛をずっと与えたかった。 人にはきっと、超えなければならない砂漠があるのだろう。 二人の中で記憶に残っている限り、別れはない。 いつか、長い長い時を経て、きっとまた会おう。」

画面の中で慟哭する夫を、妻は抱きしめる。

妻は生きる力を与えられた、彼の死後生まれた息子と共に。
もしかしてこの子は夫では? そんな余韻を残す。

メッセージを伝える・・・
それは、その俳優の魂を吐露しているということだ。
物語をキャパスに描いているのではない。 心の内部を見せている。

私はこの苦しみを知っている。 だからあなたと共にいることができる。 魔法のように救い出すことはできないが、私が見出した光を伝えることはできる。 そうしたい。

魂の俳優 パク.シニャン  

{シニャンワールド}②

「インディアンサマー」

パク.シニャンという人物は、すべての作品でほとんど顔を出すことはない。

ただ、その男がいる。

けれど実は、ほんの数パーセント、俳優は自分を現している。 ほんの数パーセントの自分を、その俳優を愛する者は見逃さない。

パク.シニャンが消えて、その男が現れる。 数あるその男達の中で、私は、この作品のソ弁護士がことの他好きである。 パク.シニャンよりも誰よりも好きである。

彼は田舎育ちの、スニーカーを履いた弁護士。 パク.シニャンのうまさは、弁護士というインテリであるにも関わらず、決して都会的なスマートさがない男そのものになっている。

ボソボソとした話し方。 素朴で、どこか垢抜けない男。

いつか長い長い時の中で会いたい人がいるなら、私はソ弁護士に会いたい。 2番目に会いたい人は、また別な作品の中に。

死刑を宣告された若い女性。 その女性を目にした時の、弁護士の表情は、ハッとした心の動きを語っている。

心の中に入ってきた。
気になっていく心の動きが、微妙な表情、そして会話のテンポ、やさしさに写しだされる。

弁護によって女性は無罪となる。

偶然外で出会い、二人はお茶を飲み、女性を車で送る。 車から降りようとする女性に、弁護士はためらいながら言葉をかける。 「ではまた」

かれははっきりと女性に対する自分の気持ちを知った。 この辺の微妙なうまさは、まさに、シニャンワールドである。 わずか数分のこのシーンひ引き込まれ、いうなら、俳優のうまさに満足する。

パク.シニャンの作品を何度もリピートしたくなるのは、 ある小さな場面、場面の微妙なうまさをまた味合いたくなるためである。

女性は再び訴えられた。 現状からして敗訴になるだろうと感じた弁護士は、違法行為にでる。 密航ルートを使い、偽造パスポートを用意し、女性を逃がそうとする。

「私を見て。 私が夫を殺したの」
「そんなことは関係ない。 逃げてくれ。 生きてくれ。」

そんなことは関係ない、ただ生きてくれ。

パク.シニャンが語るとき、それらの言葉はすべて、セリフではなく、体内から沸き出でる思いとなって響いてくる。 弁護士は彼女に、本当の意味での罪を見なかったのだろう。

女性は自ら死刑を望むほど死を願っていた。 救いたい。 生きてくれ。
女性は本当は夫を殺してはいなかった。 けれど、その死を望んでいた。

密航し逃げることもなく法廷に戻った女性は、自ら違う弁護士を頼み、私が殺したと告白し、そして死刑へと向かっていく。

二人は別々の部屋に座っている。 扉が開いて閉じるまでの短いとき。 かれの恋も終わった。

女性は生きてみたいと願うまで、この弁護士に救われたのだ。 回復し満たされた。 だから今は、彼の社会的地位を守ろうとしたのだと、私は感じている。

インディアンサマー。 この言葉の意味を知る人はほとんどいないのではないだろうか。
その意味が、この俳優のナレーションで語られる。

声ということに、とても敏感になった。 声は魂の形を現している。 宇宙の良きものと繋がっているか。 そうではなくさまよっているか。 本心に誠実であるか。 外側の事情に従っているか。 あるいは無意識ででも芝居をしているか。 そんな生き様もある。 声はすべてが分かる。 お化粧をとったすっぴんが見える。 

この俳優の声は深く、静かさがある お化粧をとったすっぴんのままの生き様。 

インディアンサマー、それは、寒い冬が訪れる前に、まるで神の恩寵のようにもたらされる熱い時。 そんな奇跡は誰にでも訪れるが、きずくこともなく過ぎ去ってしまう。


「ホワイトバレンタイン」

えもしれぬ清らかさを身に浴びる作品である。 

パク.シニャンという俳優は数パーセントの自分を作品からかもし出す。 それは、品性である。
生まれ育ちから感じられる品というのは、現世的な苦労から離れているために備えられるものだが、パク.シニャンという俳優から感じる品格というのは、またちょっと違う。

すべての人がもっている神性。 ほとんどの人が、そこに住むことは難しいが、この俳優は、魂の中にある神性と結びついている、そのような意味での品をかもし出す。

ハトに餌を与えているパク.シニャン、いや、その男は、まるで天使のようだ。

顔から放たれる光は、霊層の高さを示すと呼んだことがある。

静謐。 この作品から放たれる気は、静かさ。

物語は、ストーリーというよりも、むしろ、ある独特の情感の流れから成り立っている。

強すぎる悲しみ、憤り等の表現を捨てきって創られている。

あきらめも、過去への囚われももってはいるが、あえて抵抗することもなく持ち続けたまま、時々顔を出す苦痛として、自分と共にある。

清らかさの中に醜なる者は入り込むことができない。

登場するのは、白と黒の配色の、チビ×2乗みたいなチビ犬。そして、天使の化身、白いハト。

チビ犬と白いハトは天の使いとしてやってきて、一人の男性と一人の女性を結びつける、大きなお仕事をやり遂げる。

いつのまにか、過去への囚われも、時々顔を出していた苦痛も和らぎ、そして、消えていっただろう。

癒されるということは、たぶん、抵抗しても、努力してもなされることではなく、そう望み、そう願い、そうして、だた生きる。 ある時、傷がなくなっている自分に気がつくだろう。

チビ犬がデッカイ犬になった頃、女性はこの町を去り、駅へ向かう。

田舎の小さな、平凡でしかないこの駅の情景は、映画史上指折りの美しい場面だと、私は一人で結論づけている。
小さな雪が、花吹雪のようにたえまなく舞っている。 一粒、一粒の雪は、生きているフェアリー達である。

踊っているように見える。 歌っているように感じる。

その男は、女性が乗り込んでいるであろう汽車に駆け込んでいく。 スェアリー達もまた天の使者であって、彼を促していた。 妖精達も今、大きなお仕事をやり遂げたのだ。

人はきっと、私達を幸福にしようと出番を待っている美しいもの達に囲まれているのかもしれない。

この作品は童話。 本棚にしまっておいて、時々、その気を浴びるために取り出す、大切な宝物。

名作。

魂の俳優 パク.シニャン

{シニャンワールド}③

「まぶしい日に」

 こんな男も創りだす。 パク.シニャンは神の道具。 

ウ.ジョンテ。 施設で育ち、学問も教養もなく、正義感すらない。 そんな男が出来上がった。
その笑い、しぐさ、動作・・・・

ウ.ジョンテはしかし、ある女の子との交流によって、閉じられていた部屋が少しづつ開いてくる。 こんなはずでは・・・ とまどいながら変化していく。

女の子がウ.ジョンテの子供だというのは、ある女性の完全な勘違いだと最後に分かるが、この勘違いは一人の男を変えた、もちろん良い方向に。

その男が女の子から受け取ったもの。 それは、無条件に自分を必要としてくれる人がいるという世界だった。

私はあなたにとって、それ程必要ですか?

そして自分の言葉を無条件に信じ、従うという反応。

その男はテレビの写りが悪いから屋根の上のアンテナをまっすぐにキープするようにと命令する。

アッパー、もう大丈夫? アッパー、まだダメ?

やがて雨が降ってきて、女の子はずぶ濡れになって、それでもアンテナを離さない。

女の子は入院する。 

「いくら俺がバカだからって、あいつまでバカでなくてもいいだろう。 雨が降ったら普通なら降りてくるだろう」。
ウ.ジョンテの心の中に、今まで知る由もなかった世界が入り込む。

女の子は実わ余命が宣告されていた。 そのことを知ったジョンテは、とても良いものを与えたくなった。
二人でサッカーを見に行く。 そして台に昇って踊りながら応援する。 パク.シニャンはバレエの素養があるが、 今この時は、ジョンテの踊り。 興奮する様子、目つき、学もなく、生まれも育ちも貧しい男の姿。

女の子は遺言を残していた。 私が死んだら目をアッパーにあげてください。
ジョンテは失明寸前だった。 彼は愛を女の子から受け取った。 実際に、今、彼の目の光となって完結した。

二人でボールをころがしながら遊んだ、ス テ キな時間。

ジョンテはヤクザな世界から離れていった。 
人の人生にある別離が予定されている時、自分が逃げ出そうとしなくても、相手の方から別れを告げられることがある。 「もう俺の目の中に現れるな」。

今は子供達のサッカーの先生になっている。 勘違いをして二人を引き合わせた女性が1年後に訪ねてみた。 
二人は写真に納まった。 「いやー、恥ずかしい」「恥ずかしいよ、ヘヘ・・」


「4人の食卓」

パク.シニャンが作品を選ぶという最初の段階からシニャンワールドは生き始める。 選ぶということは、俳優からのメッセージである。  それゆえに、この作品もまた、お化けを見るようなホラーではない。
私は何を語り、共にいることができるだろう。 珍しく、おそらくこの一作だけ、パク.シニャンのあらゆる魅力は封印されている。 能面のように、表情が閉ざされている。 気がつけば、それこそが、この男そのものであった。

子供の頃の7年間の記憶がない。 
人は顕現していない、封印されている過去に、あるいはもっと遠い過去にまで、重い十字架を背負っているかのように影響を受けている。 その重さが、この、どこか、おどおどした表現の乏しい、硬い表情となっている。

すごい俳優だと唸ったものである。

こういうことは実わ多くの人が背負っている。 霊能力のある女性によって、閉ざされていた記憶が明らかになった。 知らないほうがよかった事実。 新たな重さに子供のように泣きじゃくる男。
そして、その霊能のある女性も、彼女によって過去の秘密を知った人々が、出口のない苦悩の中に入り込むことで精神的に追い込まれる。

私はただ、苦しむあなたを救おうとしただけ。 教えてほしいと言ったでしょう。 でも今あなたは私が憎い?
いや、でもつらい。

女性は自殺をした。

これらのことは現実に起きており経験している人がいるのではないか。 自分の重さを探ろうとすることも、霊能があるための破滅ということも。  

パク.シニャンが差し出す作品は、今在る人々の誰かに直接的に向けられる。 その時、その人は、映像が遠い物語ではなく、私へのメッセージであることに震える。 私は今この時一人ではない。 誰かと共鳴している。



「銭の戦争」


「どろどろとした金融関連の世界を、この俳優でなかったら、これ程人間味溢れる作品にすることはできなかったでしょう。最後に死んでしまう場面では、涙が止まりませんでした。」「韓国ドラマ雑誌編集部記」

本編は寂しすぎ、つらすぎて、珍しく一度見て終わった。 おそらく、もう見ないだろう。
番外編で救われた。

飾り気のないジーパン姿のクム.ナラが死から蘇って、あのやり切れない本編の世界とは無関係に、あっけらかんとして登場する。 

パク.シニャンだなぁと感嘆する場面。 憎いほどうまいと感じる場面がある。 そのように演じているからである。 技を使用している。

クム.ナラが別人を装い、女性がある男性から騙し取ったお金を取り戻そうとする。 その別人は本物よりも何倍もかっこ良くなって、スマートなスーツとサングラスで登場する。
社交ダンスで手を大きく広げている場面などは、拡大写真にしたいほどすてきであるが、別人というずるさがしっかりと溢れている。 だから憎いのだ。
女性に接近し、あわやキスシーンという場面など、パク.シニャンが技を用いる俳優であったとしても、十分に人々を魅了して余りあると認識する場面である。

けれど、技というのは、刺激し、魅了し、そして消えていくが、込めるという作業は、浸透し、留まるものである

心理描写あり、アクションあり、その中に緩やかさをかもし出しすことができる俳優は多くはないだろう。

パク.シニャンは込めていくだろう、これからもずっと。

魂の俳優  パク.シニャン

{シニャンワールド}④

「風の絵師」

パク.シニャンがこの作品を残してくれたことに感謝する。 父性を演じるシニャンに会えたのだ。  見せ場という言葉を使うなら、あまりにも多い。 それゆえ、何度も何度も見る人も多いのだろう。 レンタルコーナーでは、いつもどこかが空になっていて、フルに揃っていることが少ない。

この俳優のナレーションは、心に入り浸透する。 「インディアンサマー」の時もそうだった。この作品の最初のナレーションで、これは悲しい物語だと語っている。

人々の胸の中に、いくつもいくつもしまわれているシーンはあるだろう。 私はあえて、次の三つを語りたい。

ユンボクが斬首刑に引かれていく場面。
タノンは心に刻むように、じっと、ただ見つめている。 
 ぞっとする場面である。

この時、多くの演技者は、まず、めいっぱいの技と表情を工夫しただろう。 顔を歪め悲しむ。 目を伏せて震える。

パク.シニャンは、分かり易いすべての技を捨てている。 技を捨てきる勇気。 没入しきった時、シニャンがタノンになった時、ただじっと、無表情に見つめたのだ。

私は親の急死という経験をもっている。 あまりに驚きショックを受けた時、うなだれることも泣くことも、顔を歪めることもなかった。 ただあるのは、この事実を変えることはできないという認識だけだった。 脳がそのように指令を出した。 頭の中でギャーが回る音が、はっきりとした。 泣いてもダメ。 わめいてもダメ。 死という力に屈服しなさいという指令だった。 さめざめと泣くというようなリアクションは、まだ余裕がある。 死を冷静に受け止めることができている。

タノンのあの目。 リアルすぎて痛い。


もう一つの場面。

最初と最後に、同じ場面がナレーションつきで登場する。

丘を歩き始める直前の、タノンの表情からの、一連の一人だけの映像である。

ユナはもういないと直感する、あの表情。 なだらかな丘。 重い体を引きづるような、あの足取り。

音楽もなく会話もなく、全身で、今の心のすべてを語っている。

無償で愛し、親になってかばい、想人となった。  一つ一つの出来事、笑い、葛藤・・・・・。 一回一回必死だったが、終わった。

あのイルウォルタンの家に着く。 イルウォルタンが迎える。 戸を開ける
、その手のためらい。


中に入る。 よろめく足取り。

空の家を見つめる。

この一連のシーンは一人芝居であり、圧巻である。


この作品でのシニャンワールドのフォルティッシモ。 ユンボクがユナだと分かり、あの家に会いに行く場面である。 内からこみ上げ、溢れるように滂沱の涙を流しているタノン。

この俳優に、あえて技をいう言葉を用いるなら、冷静な、ある配分が感じられるということである。 いつもフォルティッシモでは、見る者も疲れて、幼い。

フォルティッシモのパク.シニャンは、相手役の俳優さえ引っ張り込むような迫力がある。

ちなみに その男達のなかで二番目に好きなのはタノン。 タノンに出会うということは 本当の自分を取り戻すということだ。 ヨンボクの愛は 厳しくいうと条件つきなのだ。 かれは親の異常さを許したままでしか ユンボクを愛せなかった。 この愛はユンボクをユナにすることはできない。 タノンだけができる。



{シニャンワールド} 番外編


「達磨よ遊ぼう」「達磨よソウルに行こう」

繊細なパク.シニャンがもののみごとに消滅している。 単純なヤクザ。 個人的には先に見た「銭の戦争」で、クムナラのシニャンさんを殺したマー社長が、ユーモラスで真面目なお坊さんで登場し、最後には、「良いヤクザ達」を助けてくれるので、私も救われた。 単純といっても、これほど心のひだをもたない人間を登場させたのは、なんとも、圧倒的なユーモアであり、創り出した監督は鬼才。
ヤクザとお坊さん。 ストーリーを語るのはもったいない。 疲れたとき、薬を飲むより効果がある。 腸がねじれるように笑ってしまう。 俳優達は笑わずに演じることができたのか、などと想像する。

「愛しているなら」

この作品は、シニャンワールド満載である。 若いパクシニャン、真摯で情熱的で知的で、いうことはない。 が・・・、現代版ロミトとジュリエットという作風が、個人的には、なじめない。 愛情表現も激しく真剣で、また エゴの表現も同じように激しい。 それが韓国風。 これだけの強い親の反対というのは、どうも理解できず、 それで 番外編。
 宗教性、カルマ、報い、そして祈り、許し。 結局は、ただ祈る、人間的な解決をいったんは捨てて、ただ祈る。 道はそこから開いてきた。 実はこの姿勢は、個人的に、心の深みに入り込んだ。

「プワゾン」

パク.シニャンという俳優をしらなければ、韓流作品を見ることもなかった。 ゆえに、夢中で集中的にDVDを見出したのはほんの、ここ2,3年のことである。

この初期の作品もまた、最近見出したものだ。 このような作品が韓流作品にあることにさえ、びっくりしている。 SEXシーンも、わざと醜に描きだしているような感じも受ける。 

この作品はけれど、何かに対する反抗を感じる。 まるで、ジェームスディーンの世界のような。

社会の屑と自認する若者達。 彼らのつぶやきは、けれどまるで哲学のようである。 
「エホバは自分に似せて人間を創ったことを後悔しているさ」「もし地球を洗うことができる洗濯機があれば、10回くらい回せば、少しはましになるだろう。」

社会の屑、適応できない若者達は、最後には友達のために命を捨てる。>

「行き着いた先が違った星だといいのにな」


これらのつぶやきは、多くの人の心の奥にしまわれていて、一度はつぶやいた。 そんな気がする。

この作品は、不思議な魅力がある。
,
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
最新コメント
皮 を楽しんでください